板橋区立小学校PTA連合会

南三陸町に支援物資を届けました

被災地への物資搬送レポート

平成23年6月26日(日) ~ 27日(月)

6月26日、支援物資の回収・仕分けを富士見地域センターにて行った。多くの学校から役員さん、委員さんが各校で集めた大量の物資を運んでいただいた。地域センターでは60人キャパシティの部屋を借りていたのだが、あまりの量に物資が部屋に入りきらず廊下でも山積みとなってしまった。部屋をお借りしていた時間内では到底仕分けが終わらないので、昼からは場所を志村第二小学校の体育館に移して男女別、サイズ別に仕分け作業を行った。

支援先の南三陸町では先生方も現在2~3人分の業務量となり激務となってしまっている。そのため後藤小P連会長の「仕分けなどで、これ以上向こうの先生方の手を煩わせるわけにはいかない、例え徹夜になろうとも必ずサイズ別などの仕分けは済ませ、現地に負担をかけないようにする」との強くそして揺るぎない決意があるため、私達も気合が入る。

仕分け作業と積荷作業で、板橋各校の皆様の熱い思いを感じ「真心」に嬉しい悲鳴をあげ、そして翌日には全身の筋肉がギシギシと心地よい悲鳴をあげていた。

仕分けの途中、鉄人ルー・テーズのTシャツを見つけて垂涎ものの逸品もあったが、「被災者のため」と段ボール箱に納めさせてもらった。(私は大のプロレスファン)

あまりの物量に物資を持ってきてくださったお母さん方も残って下さり、また近くでイベントを開催していたお父さん方も急遽参戦してくれたりした。

そういう皆様が手伝ってくれたおかげで、夕方には終了した。箱詰めされた支援物資の山を見て、例え一人一人の支援の力は小さくても、私達板橋区の保護者が力を合わせるととても大きなムーヴメントとなるのだと認識し、改めて皆様の「真心」に胸を打たれた。皆さんの思いはきっと被災者にも届くと思うし、また板橋の子どもたちにとっても「皆で支え合う」という強いメッセージになったと思う。

物量としては合計3tトラック 2台分の量となった。しかし残念ながら、今回はトラック1台でしか持って行くことができず、残りは後日、ボランティアセンターを通じて宮城県女川の子どもたちに届く予定になっている。

また同時に集めた「防犯ブザー」も843ヶ集まり、盛岡市に届く手はずになった。

 

翌27日、トラック隊は朝3時過ぎに、別隊は5時過ぎには板橋を出発。トラックには浅川会長(上板小)、朝倉会長(志村小)、もう1台のアルファードには小笠原顧問(前小P連会長:前志村四小)、後藤会長(現小P連会長:志村二小)、新田会長(桜川小)、中村会長(若木小)、森(舟渡小)の計7名の単P会長で片道およそ 500km のロングドライブで、南三陸町へ向けて車を走らせた。

戸田インターに乗ったころから小雨がぱらつき始めた。7時に一旦那須高原SAにて休憩&朝食を摂り、再び車を走らせるが、
郡山を過ぎたころから周りの長閑な景色に違和感を生じてきた。家々の屋根がブルーシートに覆われている数が次第に増えて来た。

また本宮市近辺では高速道路の路側帯にパイロンの数が増えて来て、パイロンのある本線では道路が波打ち、走行している車がバウンドするようになる。

ちょうど時計の針が10時を指したころ、東北自動車道から本線をはずれ仙台南部道路へと車を進めるが、雨足が強くなりトラックの荷台に積んだ物資が濡れていないか不安になる。およそ40分で桃生津山ICより一般道へ入る。一般道ではすぐに北上川を渡るのだが、雨のためか土砂が流れ込んで川面がオレンジ色に染まった大河となっている。今から津波に襲われた町に足を踏み入れるのを物語っているかのような、異様な禍々しい光景であった。

 

先発していたトラック隊とは、南三陸町のひと山手前にある津山の道の駅「もくもくランド」で合流して、そこから二台連なって山越え。雨に煙る南三陸町の惨状が目に飛び込んで来る。3週間前と様相は変わらず、復興は遅々としている。雨空のためか、山の雲は山際スレスレまで降りて来ているので、見渡す限りの山々は雲に覆われ、山が町の壊滅的情景を見下ろし、まるで白いため息を吐いているかのようであった。

今回初めてこの町に訪れた会長たちはショックを隠し切れずにいる。(二度目の訪問は後藤会長と森のみ)前回災害防災庁舎に訪れた時には気付かなかったのだが、今回間近で見ると庁舎の中に千羽鶴が吊るされており、入口だったところには犠牲となられた方のための祭壇があった。思わず手を合わせずにはいられない。雨に濡れるのも忘れたかのように、ただ立ち尽くしていた。車を走らせていても窓外に見える景色はひたすら同じ情景ばかりだが、海辺から少し離れると車や船舶がマンション等の屋上に乗っていたり、家屋が流れ着いていたりしている。

 

町立伊里前小学校の校舎から見下ろす事ができる国道45号線は途中で分断され、橋脚しか残っていない。道路だった部分は崩れ落ちている。震災前は橋脚の下には住宅があり、海は橋脚よりも奥側だった。それが現在地盤沈下して橋脚のこちら側まで浸水している。

 

 

3週間前にも目にした同じ景色だがそれでも心を痛めながら、何とか伊里前小学校に到着した。物資は3tトラックに目いっぱい積載してあるので、とりあえず体育館へと運んだ。降りしきる雨のお陰で気温は18℃と然程高くはないが、それでも7人皆汗を滴らせ、シャツも汗だか雨のせいだか分からない程、濡れている。

ちょうどその時、体育館で体育の授業を受けている子どもたちと遭遇した。子どもたちは私達が運んでいるおもちゃなどを見て、「わぁ~おもちゃだぁ~! ほしい~!」と歓喜の声を上げて近寄って来た。私達も子どもたちの笑顔を見たくて、その笑顔が我々を突き動かす活力源となっているので、疲れなども一気に吹っ飛んでしまう。子どもたちにとっては家にあったおもちゃが殆ど流されてしまった。校長先生が言っていたが、震災後子どもたちに作文を書かせたら、「ボクのおもちゃが一つだけ畑に残っていた」と書いた子がいるという。皆さんからの思いのこもった「真心」をしっかりと届けた事をご報告いたします。

物資の配布方法としては7/1に授業参観があり多くの保護者が来るので、今回運んだ物資を公開し欲しいものを持って行ってもらうようだ。

副校長先生曰く、「みんなすごく喜びます!」と・・・・

 

仮設住居に入居すると、炊飯器、冷蔵庫、電子レンジ、テーブルなどが供給されるが、食べ物は供給されない。そのため他県からボランティアが来て、1件1件仮設住宅を回ってペットボトルや野菜などを支給している団体もあるようだ。先日たまたまその内容の新聞を目にした。東京で働いていた外国人が仕事を辞めて南三陸町にやってきて、自宅や仮設住宅で過ごす被災者へ食料を支援しているという内容だった。食料を買いに行くにも一番近くのスパーでも約35km も離れている。バスが一日二本だけで、車を流されてしまった人や、高齢者などは非常に困難をきたしている。また水は使い水としてなら、ある程度復旧していてトイレの流す水や入浴には使えるようだ。ただそれもしばしば断水するそうだ。しかし、飲み水としては、しょっぱくて飲料水としては適していないとの事。校長先生は「しょっぱさにももう慣れました」と笑っていた。飲み水が完全に復旧するにはお盆辺りになるそうだ。

 

 

伊里前小学校の校長先生は、3/31まで同じ町内の入谷小学校の校長先生だったようで、震災の日、宮城ではまだまだ冬のため、いわゆる「ベタ雪」が降っていたそうだ。

津波を免れた町民が夜中、街灯も全くない暗闇を 6~7km ガレキの山を乗り越えて、着の身着のままズブ濡れ凍えながら入谷小学校に集まって来たそうだ。町の職員などは、ネクタイをかき集め燃して暖をとったと聞く。そして昔から「津波の後には雪が降る」という言い伝えがあるようだ。前回の津波の時にも50年前のチリ地震の時にも5月も下旬だというのに雪が降ったらしい。

また被災直後まずは食料などの物資が届けるのに、道すらガレキで埋め尽くされてしまっているので、入谷小学校に全ての物資が届いた。そこから町の職員らが手分けしてガレキの山をかきわけ、手作業で配ったそうで、食料にしても支給に3~4日以上時間を要した。名足小に関しては、半島の尖端に位置して2/3の住居が流されてしまっていて、陸の孤島と化していた。生き残った地域の人々が米などの物資を持ち寄り、何とか食いつないでいたそうである。

 

 

被災直後は自分の家があった場所に戻って崩壊した、あるいは流されてしまってなくなった我が家を目の当たりにしても、特に何も感じなかったと聞く。想像を絶する惨状に、震災前の我が家と目の前にあるものが同一のものとしてなかなかリンクしなかった。深い悲しみに包まれて茫然自失となったのは、数日が経過してからだという。

 

 

復興にとても大きな尽力を尽くしてくれている自衛隊も6月には撤退が決まっている。被災者は風呂がなくなるので、かなりがっかりしているようだ。自衛隊員は3/11の被災直後から未だに自分の家に帰っていない方も多いようで、隊員のことを考慮すると迂闊な事を言えないが、ガレキの撤去だけでも数年はかかるだろう。心強い彼らの存在がなくなると町民の不安も増長されるのではないだろうか?

 

 

南三陸町でははるか昔、縄文人は高いところに貝塚を作っている。そして今回の震災においても遺跡は殆どのところで無事に残存しているし、また神社においても同様である。昔の人は津波の怖さを片時も忘れず、生活と密着している。それが昔の人の知恵であろう。校長先生が言うには、「現代人は時が経つにつれ、人は津波の怖さを忘れ山から下りて来て便利で住みやすい海辺に町を作った。そのため新しい家ほど山の下に家を建てて、流されてしまった。」真理をついた言葉だろう。今後東北地方では「職住分離」ということで、今回の津波で湾の浸水したところには住居を認めないのではないだろうか。南三陸町は漁業の町というより、水産加工の町である。復興の際には人々が高台へ逃げやすいよう、また3階以上の鉄筋コンクリート作りの建築物となるよう願っている。この町は宮城県1の鮭の水揚量を誇っている。今後鮭が南三陸町の川へ戻ってくれば、本格的な水産加工業の復活を迎える事が出来るようになるであろう。そうなれば同町に生活の基盤を構える人々にとっては、雇用率のUPにもつながり、再び活気ある町となることを切に願ってやまない。

 

 

現在、子どもたちは風が吹いてもその音を津波と錯覚する子もいるという。実際に津波を目の当たりにした子とそうでない子とでは、心的外傷後ストレス障害も大きく異なっているようだ。また子どもたちの行動範囲も大きく様変わりした。町では全く遊べる場所はない。避難所でも周りの方々の迷惑となって遊べる場所はない。学校でも授業が終わればスクールバスですぐさま帰らなければならないので遊べる場所がない。どこで遊んだら良いのか? ストレスが溜まっている事であろう。

しかし、学校で会った子どもたちは、皆明るく屈託ない笑顔をしている。順応性の高さもあるのであろうが、それも自分達を守ってくれる先生や友達が傍らにいるからであろう。どの子も廊下ですれ違うと「こんにちは!」と挨拶をしてくれる。この子たちが本当に安心して心から笑えて、将来の不安を払拭できる日が来るのを一日でも早く来るのを願う。

 

 

11/12(土)は伊里前小学校、名足小学校の運動会がある。その時に再び南三陸の地に足を運び、板橋小Pとして子どもたちの笑顔のために何かイベントを行いたいと考えている。今後小Pとしても熟慮を重ね、プランニングしていきたい。皆様には今後もご協力やお力添えをいただくことになる場合もあると思います。その折には何卒ご高配のほど、宜しくお願いいたします。

 

 

最後に、先ほども述べたが、物資の仕分け作業をお手伝いくださったお母様方、荷物の積荷に力を発揮してくださったお父さん方、また貴重なトラックを物資運搬のためお貸しくださった浅川会長、平澤会長に心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 

舟渡小学校  森 剛

 

 

マンションの上に車

 

 

 

塩害にて山の木々が赤く変色

 

 

 

 

 

 

 

 

Comments are closed.