板橋区立小学校PTA連合会

南三陸町視察 その2

南三陸町の現状

小P連 後藤会長の号令の下、6月7 日 早朝4時30分に集合し、一路宮城県の南三陸町へ出発した。新河岸小の渡邊会長のNOAH号に乗り込んだのは、後藤会長(小P会長:志村二小)、渡邊会長(新河岸小)、伊藤会長(徳丸小)、森(舟渡小)、そして今回南三陸町のPTA連合会と橋渡しをしてくれた難波さんの5人。途中、那須高原SAで休憩をはさみながら、富谷JCT、利府JCTを経て三陸自動車道の鳴瀬奥松島インターチェンジで高速を降りたが、ここから南三陸町まではまだ30数kmもある。三陸自動車道を降りるとのどかな田園風景が広がるが、鳴瀬川を渡ると辺りは一変してくる。堤防の上が道路となっているので周りの田畑より一段高くなっているが、道路を挟んで右手と左手の田畑で雲泥の差がある。左手はいつも見かける田だが、右手は石巻湾に面しているため津波に襲われた壊滅的な爪痕をしっかりと残している。いつものこの季節、田んぼは鏡のように陽光を反射させた水面に、幾何学的に配列された若々しい緑の苗が美しく彩る季節なのに、一面の田んぼが命ある全てを覆い尽くしてしまうような茶褐色に汚泥化され、ところどころにボートやブイなどが浮かんでいる。辺りを見渡せば、この三月の間に人々は丹前からTシャツなどに様相を替え、木枯らしに耐えていた凛々しい山々は燃ゆるような翠に囲まれているが、町は3月11日のまま止まっていた。それでも車で走行中、町中の小学校脇を通ると校庭で歓喜の声を上げ遊んでいる子どもたちの姿を確認すると、ホッと安堵する。10時30分、ようやく南三陸町の手前の津山市 道の駅「もくもくハウス」に到着。筋肉が拘縮し始めた体躯に痛みを覚える。ここから山を越えると食料はおろか、店が全くないとの事なので、早めの昼食を摂り時間調整のためしばしの休憩。12時を過ぎたため、再びNOAH号に乗り込み山越え。南三陸町の方から来たヤンチャな兄ちゃんの車にも「がんばろう東日本」の大きなステッカーが貼ってあっって、皆一丸となって立ち向かう時だと改めて感じた。山を越え車は下りに差し掛かると、全壊・倒壊した家屋が次第に増えていき、道路脇の川に瓦礫の山が増えていった。山間の川にも関わらず小型船舶がひっくり返り、原型をとどめていない車がいたるところに点在している。山間を抜け視界が広がると、そこはもう人工的構造物が全て打ち崩された、幼少のころに見た怪獣に建物全てを破壊されたジオラマさながらな光景。

車の中では5人ともただただ唖然として、言葉を発する事ができない。想像を絶する場面に出くわすと、狭い車中での無言に息を詰まらせ何かをしゃべろうとしても言葉が見つからず、ただ「うわぁ~」という言葉しか出てこない。小P連 後藤会長はあまりにも無残な光景を目の当たりにして落涙が止まらない。この惨状の中、特に子どもたちが逃げ惑っている情景を思い浮かべると、「本当に、本当に怖かったんだろうな、苦しかったんだろうな」と、胸が痛くなってしまった。左の写真はトンネルを抜けると壁は崩壊、線路は分断されて流されてしまっている。海辺の町まで来ると、言葉で表現できないような惨状を呈している。

子どもの頃、広島の原爆資料館で見た辺り一面瓦礫野原の写真とリンクしてしまう。その写真と異なる点は、目の前の惨状が色の付いた立体映像である事と、既に重機を用いて復興が始まったという点であろう。唯一といってよい構造物があったのが、津波が来る間際まで町民の方に避難を呼びかけていて、自らが犠牲となった防災対策庁舎。帰京してから南三 http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51218930.html より陸町のホームページを見ていて知ったのだが、命の限り叫び続けたこの女性 遠藤さんは今秋挙式の予定だったようだ。そしてもう一人、歌津中学校

野球部コーチであり同町職員 三浦さんだ。放送を聞いていた町民の方の話では、最後は声が震えながらも庁舎がのみ込まれるその瞬間まで懸命に叫び続けたようで、それを読んでいて全身の毛が逆立つようで、恥ずかしながら私も頬を伝う涙に抗う術を知らなかった。自分がもし同じ状況であったなら、彼女らと同じようなことができたであろうか? (http://www.youtube.com/watch?v=IBUWQVrbdn4 参照)メディアには、「津波は第1波で庁舎をのみ込み、全ての壁と天井を打ち抜いた。第2、第3波があり、屋上には当初30人ほどいたが、気が付けば8人しか残っていなかった」と書かれてあった。

左の写真は現在の防災対策庁舎で鉄骨のみ残存しhttp://www.woodbridge.co.jp/blog/item_222.htmlより ているが、下の画像はネットで拾ったものだが、津波に襲われている最中の防災対策庁舎屋上から海方向へ向けて撮影したものである。まさに防災対策庁舎といえども想定外な津波であっただろう。この屋上で町長さんたちはアンテナなどにしがみつきながら、一命を取り留めたとうだが、よくぞこの状況下で助かってくれたと思う。家らしき建物があったであろう基礎には金色の仏像が置かれていた。冥福を祈りたい。それにしてもこれだけの瓦礫と化した町で、町の人々の移動、支援物資の流入などができるように道路が整備されたのは、自衛隊や国土交通省の方々の献身的な活動によるものだと思う。
海辺の町を後にし、目的地の伊里前(いさとまえ)小学校へ向けて車を出す。途中空き地となってしまった場所では、移動販売車のセブンイレブンが来ていた。以前はセブンイレブンの店舗があった場所に、お客が来るということで移動販売車が来ているようだ。荷台に冷蔵設備を設けたトラックで弁当などの食料品の販売と、もう一台は現金支払機を搭載したトラックに警備員がピッタリ寄り添って警護していた。この一帯では臨時的に弁当や飲み物、お菓子などの食料品を販売しているのはこの移動販売車のみであろう。朝5時前に板橋を出発して、12時40分ようやく目的地に到着した。伊里前小学校の隣の歌津中学校前で車を降りたが、中学校の校舎を眺めると、(写真では小さくてわかりづらくてスミマセン)最上階の教室の窓に「いつも温かいご支援心にしみます お体ご自愛ください」と、支援者への感謝と気遣いのメッセージに心打たれた。私が仕事で行った福島市や南相馬市の方々もそうだが、想像を絶する状況に身を置かれているのに周りに対する気配りには敬服する。早速伊里前小学校にて、伊里前小校長、名足小校長、PTA連合会会長達と校長室にて打ち合わせに入る。板橋には区立小学生がおよそ2万人、その保護者と教員も含めたPTA会員は板橋区最大のボランティア団体を誇る。今までは自分たちに協力できることをやりたいと思っていても、「まだそういう段階ではない」「まずは行政からではないか」という声があり差し控えていた。これからが復興に向けて本格的に始動を始める時なので、教育に限らず自分たちにできる事があれば何でもやらせて欲しいという事を、後藤会長が板橋区立小P連を代表して説明した。南三陸町では学校が8校で、うち小学校5校、中学校3校があり、5月10日からようやく平成23年度として学校が開始できるようになったらしい(宮城県では最も遅いスタート)。水道はまだ復旧が追い付いていないようで、給水車やペットボトルで対応しているようだ。また、全部で1,400人が進級する予定だったのが、1,000人しか進級されておらず、転校などを余儀なくされた。町では多くのが犠牲となり、7割の住居が流されてしまって、水産業が盛んなこの町では、地震、津波の被害に加えて、活気ある職場まで奪われてしまっている。子どもたちは親戚の家や仮設住居から通っている。右図では高台にあるのが伊里前小学校で、中央部分にバスが学校へ向かっている。子どもたちは親戚の家や仮設住宅までバスで通学している。また南三陸PTA連合会会長の話では、家が流されて全てを失って体育館などで避難生活を余儀なくされていた人たちが、仮設住宅に入居が決まると(小さな子や障害者の方がいる家庭から優先的に入居がきまるそうだ)、その時点で食事等の支給がなくなってしまう。全てを失っているのだから自分で物資を調達できるはずもなく、また近くの買い出しに行くにも一番近いスーパーまで30数kmもある。車も失ったのだから、とても買いに行ける距離ではない。そのため、仮設住居への入居を拒む方もいて、避難所生活を続けざるを得ない方々も未だ多いのが現状のようだ。学校では6月1日より給食がようやくおかず付となった。それまではコッペパン+牛乳+プリンorゼリーのみだったようだ。町内では、尊い子どもたちの命も犠牲になってしまった。また、被災孤児となった子どもも数名もいた。地震があった2時46分ごろ低学年の児童もまだ学校内にいたようで、他地域などに比べ被害児童が少ないというのがせめてもの救いだった。もしあと30分地震が遅かったら、学校を後にした非常に多くの子どもたちが犠牲になっていたかと思うと、身も縮む思いだ。伊里前小学校には名足小学校が同居する形で、2校の児童たちが授業をしている。名足小では校庭に瓦礫が多くあり、家屋も流れて来て、ガラスも散乱して児童たちには危険が多くて小学校として機能できないようだ。瓦礫の設置場所が決まらなければ撤去もできない状態で、教育の現場の復旧、子どもたちの安全確保にはまだ長い道のりが必要である。子どもたちばかりでなく、教員のご家族や教員自身が流されてしまったのも事実で、現在1人の先生が2~3人分の事をやらなければならないようで、先生方の負担にならないよう十分配慮したうえで支援を行っていかなければならないと、強く感じた。後藤会長もホームページのトップに記しているが、伊里前小の校長先生がおっしゃっていた事で印象に残っている言葉として、「子どもたちには3つの『間』が失われてしまった。子どもたちは遊ぶところがなく、学校へ来ても狭い…空間。スクールバスのため学校が終わったら遊ぶことなくすぐに帰らなければならない…時間。子どもたちが他の町に転校したりして一緒に遊ぶ友だちがいなくなった…仲間」というのが強く心に残っている。
現在困っていることなどを聞いてみた。聞くと「なるほど」と理解できるのだが、私達には思いもつかないことがあった。昨年夏まで、この地方では爽やかで心地よい海風が入ってくるので、窓を開けていればエアコンや扇風機もそれほど必要ではなかった。それが津波の影響で未だに水が引かない場所が数多くあり、そのためボウフラが湧いて蚊やハエが大量発生しているようだ。東京ではあたりまえの網戸が南三陸町ではなかった。ゆえにこれから暑くなっても害虫のため窓が開けられないので、扇風機が必要になってくる。また、草が伸びて来ているので蚊などの発生を抑えるため草刈り機が必要だという。そこで小P連としてロビンラーニー製エンジン 刈払機(草刈り機):定価18,858円(右図)を1機急遽寄贈した。   また3月に被災して支援物資として冬服は集まっているのだが、夏服、帽子、サンダル、そしてベープマット(火を使わない)が不足しているようだ。それらの支援が急務だろう。
南三陸町には志津川(しずかわ)小 :256人

戸倉(とぐら)小   :75人

入谷(いりや)小   :104人

伊里前(いさとまえ)小:141人

名足(なたり)小   :74人

志津川中       :247人

戸倉中        :56人

歌津(うたつ)中   :130人

4/25現在 の子どもたちがいた。難を逃れた子どもたちには、精一杯生きて欲しい。
これから東北地方の復興には、十年以上もの時間を要するであろう。被災直後は、マニラなどのスラム街の人たちが、日本のために募金をしてくれたというニュースも耳にした。私達も災害のあった今年に限らず、長いスパーンでの支援が必要となってくる。まさに国難ともいえる非常事態、我々日本人の叡智を集結し、物資はもちろん精神面の支援、そして後方支援も含めて一丸とならなければならない、と現状を見て強く思った。 最後に帰路に着く時、被災地の入口とでもいえる場所でガソリンスタンドが経営していた。そこにはボードに大きな字で「津波のバカ!」と書かれてあった。まさに町民の気持ちを表した端的な言葉で、とても強く心に染み入った。

舟渡小学校  森 剛

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